2016年5月29日日曜日

治療における過剰な自信は常に禁物

言うは易し、行うは難し。

かのWilliam Osler先生の有名な言葉”Medicine is a science of uncertainty, and an art of probability”はまさに医師の行う”治療行為”の本質というものが何であるかを一文で見事に言い切っていると思うのです。臨床においては同じ病状を示していても実は後ろに控えている病態は異なったりというようなことは実に毎度のことで、文字通り”見かけ”に騙されていては治療は全く錬金術のレベルまで落ちることになります。

しかしまた、実際のところ教科書に出てくるような診断基準を全てきれいに満たしてくれるような状況で病気が医者の前に出現することはむしろ稀というべきで、同じ病気でも時間軸によって数値や状況が違ったり、性別、年齢、背景になる遺伝的バックグラウンドが異なる事によって治療の方法は勿論、治療に対する反応性も全く異なってくるのは当然のことですし、自分の前に患者さんがあらわれてくるまでに既に他の医師の治療によって状態に修飾がかかっていることもこれまた日常。そのような情況の下では最初のオスラー先生の言葉が全くのところ正鵠を射ているということが私には強い実感を伴って腑に落ちます。

臨床の現場に戻って二年半。大先輩達の助言に助けられる日々ですが、実際にその分野のエキスパートと言われる人達が集まっているミーティングでさえも、詳細なデータ提示が行われて尚わからない事が沢山出てきて専門家たちが必死の遣り取りをしているのをみると「理解に苦しんでいるのは俺だけじゃないんだ」という安心感とともに、医学における治療行為というものが本当にいろいろな集学的知識に基づく微妙なバランスの上に成り立つものなんだなって改めて考えました。

実は今日、こういった堅いことを書いているのはデシジョンメーキングに関するある記事を読んで、”決定”を行うときにどのようなプロセスを経て”実行という行為”に及ぶかということに関してもう一度考えさせられたからでした。

医師の治療行為は、それこそ間違った薬一粒の投与、1ミリのメスの動きのミスで人を殺してしまうことがいつでも起きうるシリアスなものです。 何かを決定して行うに当たっては、その時点では最良と思われる方法論になるべく自分の知識を近づけて行いく日常の研鑽と謙虚さが求められると私は信じています。が、これが本当にムリというレベルで難しい。日々の最新情報があってもそれを常に応用できる環境にあるかというと、そういうことは僥倖というレベルであるわけで、大学病院のようなところで出来ることが外の中規模病院でできるか、更には開業医で出来るかというとそれは無理。時には素直に患者さんを高度治療の可能な病院へと送ることになります。そして、それが必要な時には無理をしないで患者さんを紹介することは”とても”大切なこと。

一人の医師の出来ることなんて本当に限られているのです。

私自身は、基本的になにか大きな治療方針を決定していく時には己の理解できないことに関しては常に同僚、上司に質問を発し続けることにしています。自らが決定的に見落としているなにか非常に大切なものが自分の見通しの中に無かったのかを確認する作業なしには責任を伴った行いは出来ないと信じているからなのですが、この行いによって実際に今まで多くのことに気付かされるとともに、そうやって悩んだ症例こそが血肉になることをこの短い期間にも強く実感しました。

オジサン医師は今後も悩みながらDecision Makingを続ける日々がずっと続いていくのでしょう。浅学非才を恥ずるのみです。何だか反省文みたいになってしまいました。まあ、慢心しないためには己の行為を振り返って文章化するのは良いことかな・・・。

眼の前にある事実を先入観にとらわれず、可能な限りあるがままに観察できる人間でありたいものです。常に謙虚に。常に謙虚に。

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2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

smallGさんのような謙虚で勉強家で色んなことをよく考えているお医者さんが
どんどん増えるといいですね~

small G さんのコメント...

いや、そんな立派なものでは全く有りません。

自分の実力というのはよく判っておるつもりです。
勉強すればするほど、患者さんに当たれば当たるほど次から次へと疑問が膨らんできて、それを解決するのが精一杯の日々です。

多くのお医者さん達はテリー伊藤の私見とは違ってやはり勉強家が多いですよ。

というかそうでなければまともには医師は続けられないと強く思います。